2017年5月27日土曜日

原故郷のスラヴ民族

天皇皇后両陛下 ミュシャの展覧会をご覧に

5月25日 20時19分

天皇皇后両陛下は25日、アール・ヌーボーを代表する画家、アルフォンス・ミュシャの代表作をそろえた展覧会をご覧になりました。

両陛下は25日夕方、会場の東京・港区の国立新美術館に到着されました。アルフォンス・ミュシャは、1860年に今のチェコで生まれ、19世紀末から20世紀初頭にかけてパリを中心に活躍した画家で、繊細な女性像を描いたポスターなどで知られています。

晩年のミュシャが16年かけて描き上げた大作、「スラヴ叙事詩」はスラブ民族の独立への思いと、故郷への愛を歴史的な出来事に託してつづった20枚の巨大絵画の連作で、チェコの国外ですべてがそろうのは初めてです。

ほかの民族の侵略におびえる人々の姿を描いた「原故郷のスラヴ民族」など、作品は大きなもので縦6メートル、横8メートルほどもあり、天皇陛下は展示を見渡しながら「ずいぶん大きいですね」などと話されていました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170525/k10010995101000.html




  • ミュシャの挿絵やイラストが、明治時代の文学雑誌『明星』において、挿絵を担当した藤島武二により盛んに模倣された。
  • ミュシャの有力コレクションの一つは日本にある。堺市が所有し、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館で一部が展示されている「ドイ・コレクション」である。「カメラのドイ」の創業者である土居君雄が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、本業の商品の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めた。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれた。1989年には、土居にチェコ文化交流最高勲章が授与されている。土居が1990年に他界すると遺族は相続放棄し、1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈された。

藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日慶応3年9月18日) - 1943年昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家である。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩士の家に生まれた。はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。1896年明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。本郷駒込曙町(現・本駒込1丁目)で画塾も開いていた[1]1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。ただし、パリからローマに移った直後の事故で、フランス時代の作品の大半を失っている。帰国後、教授に就任する。
黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。
1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。
晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年昭和9年)12月3日帝室技芸員[2]1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。




、、、(爆wwwwwwwwwww

1 件のコメント:

ミネ さんのコメント...

ちょっと前までは亀陛下出向くとなればはずほーれんのお知らせだったのがねww

馨の追悼がためっすか
チャルメラ吹現る?